昭和46年12月01日 朝のご理解



 御理解 第81節
 『氏子、十里の坂を九里半登っても、安心してはならぬぞ。十里を登り切って向こうへ降りたら、それで安心じゃ。気を緩めると、すぐに後へもどるぞ。』

 例えそれは死の歩みでありましても、一歩一歩間違いのない焦点に向かって、目的に向かって進んで行くなら、何時かはそこへ到達する事が出来るでしょうけれども、それへ向かって、進んでおる積りと云うのは積りではいかん。信心しておる積りだとかやはり信心をしなければならん。居立つの上には参りも拝みも、しておるのですけれども、一向に安心の所迄行けん到達しない。
 「向こうに降りたら安心じゃ」と言う所まで行かない。ね。此処でもう一つおかげを頂いて是は「向こうへ降りたら安心じゃ」と云う事になったらね、神様がね安心して下さる事なんですよ。神様が安心して下さる信心。神様から安心して頂けれる氏子。どう云う信心をさしてもらえ、ま焦点を置いたら良いかと。信心によって本当に有り難い、勿体ないと思える日々を過ごさして貰おう、又そう云うおかげを頂かせてもらおう。
 本当にその有り難い、勿体ないと思うその心が教会参拝になり、所謂お礼参拝になると。私あのう登りきって向こうへ降りたらと云うのは、そう云う様な事だと思うですね。ね、信心生活ができて、日々が有り難い。もったいない。事実そこにその様なおかげを受けておる。そのおかげがです、お礼参拝をさしてもらわなければおられない、御用さしてもらわなければおられないと云う、まぁ衝動衝動の様な物が、あってそしてお礼参拝をしないでおられないでおる。続けられると云う。
 そこ迄がね私は登りきって向こうへ降りた姿だと思うですね。誰でもお礼参拝こうしてしておりますけれども、ね、けれども是はもう本当に心底からです、ね、あれもおかげ是もおかげと感じさしてもらう。本当、信心も出来んのに此の様なおかげを頂いて、と思う。ただもうおかげを頂いておる。本当に有り難いと思うとります、と云うのではなくてその有り難いと云うのが、次の信心の修行に現れておる。例えば教会参拝がそれになっておると。ね。其処迄行きましたら、私は信心もまず安心だと。
 また神様もそれなら喜んで下さり、安心して下さると。頂くまでが大切。例えばご理解に人間を軽う見な、軽う見たらおかげはなしと仰る。今日皆さんに私は、此処ん所で分かって頂きたいと思うんですけれどもね。自分はもう十里の坂を登っておる、信心は一通り分かっておる、積りである。ね、けれどもあれも成就してない、是もまだ中途半端、ね。此処が痛い、此処が痒いと言う間は、私はまだ十里の坂を登りきっていない証拠だと思う。おかげを受けて有り難い。
 もう信心のほんとこう有り難さと云うのが分かれば、その有り難いと言う心にですね、おかげは絶対のものなんですから。だから有り難いと思うておりますと云うのはね、有り難い積りでおるだけです。本当に合楽にご神縁を頂いて、本当に有り難いと思います。もう本当に今の合楽に御神縁を頂いて、真に有り難いと思えたらね、もう絶対おかげを受けるです。いわゆる真に有り難いと思う心に、おかげは頂ける、そういいおかげ。そう云うおかげを頂いたら、心の底から湧いて来るもの。
 有り難うして、もったいのうして、いわゆるじっとはしておられないと云う衝動が、朝参りにもなりゃ御用にもなって来るのです。信心が其処まで、私は頂きまた到達した時にです、私はその十里の坂を登りきった時だと思うです。そこでただ今申します様に、人を軽う見な、軽う見たらおかげはなしと云う様な、そん時やっぱ御理解でもこうその待って来る事が出来ますね。どの人が見てもどの人を見てもです、本当に尊く見えて来ると。軽う見るだんじゃない。ね。
 そう云う私は信心ができたら、もう十里の坂を登りきっておるのであり、もう安心じゃと仰る安心じゃと。ね、いわゆる神様も、ね、其処迄私ども頂けた時にです、初めて神様が安心して下さると。もうこの氏子は大丈夫と云う事に。どうでしょうか、私どもの周囲に、ね、本当に皆が尊いものに見えて来る、是は人だけではありません。ね、物でもそうです。本当にですねそれはね例えば、此処で申しますならば、此処が夜ともなると、もう電気が、もちろん点きますから、もう必要でない所に続く。
 私は、ずうっともう消やしべ官のごとして、もう回わって探しまわす。そりゃね、神様が払ろうて下さるじゃから、そげんやって。いっちょんそう、少々電気を使うたからと言うて、おしいとか、なんとかと思わないけれどもね、いわゆる軽う見らない心なんですよ。ね。ですからさぁいよいよ使わにゃならん時には、それこそ満開色のように電気を点け取っても、それは有り難い事。
 けれども必要ではないところに、ぱちぱち電気を点けてさるく人がある。それで私が後から、カツカツ消して歩く。そりゃなるほど灯りが強かが良か。明々としとるほうが。けれどもまた、薄暗いとも有り難い。ね、さぐりさぐり行かなんごたんならどんこう出来んけれどもね。いわゆる、人を軽う見なと言う事は、ものを軽う見なと云う事でもある。そう云う意味で、私の場合、ものを軽う見なと云う、云う意味で、であった神様が安心して下さってあると思う。
 私共がもう最後にお風呂にでも入らせて頂いたら、もう本当にもうそれこそ一番最後のお風呂でも、もう上がってくる時には、もう風呂ん中が楽しいぐらいに綺麗にせにゃ上がって来られない。それにもうまぁ禄そないのは、ええけれども石鹸なんかがドロドロ流れるごたるとば、こうやってほっからかして開けたまま上がって来て、ね、石鹸を軽う見てる訳です。これはもう私が使っとる石鹸を本当、最後の所を皆に見て頂きたい。もう紙のごと薄うなるごとまで綺麗に原型を保っとります。ね。
 だからそこまで行くのには、是は決してしみったれじゃないのですよ。それはね人の物であるとか、まぁ親かたぎのもあると云う事をと申します。成程此処は石鹸はもう使うしこはお供え頂いとりますから、いくら使うても良い様な物。それはまぁ石鹸だけの事じゃないなにもかにもが、ほんとに使っても使っても、神様下さるのですけれどもね。ならその石鹸一つを軽う見ないと云う事。ね。だからもちろん其処に使う石鹸もですけれども、また皆が使うた後の石鹸も、必ず私が最後に入ったら。
 必ずこうやってそのうん明くる朝乾く様な工夫をして上がって来る。是はもう石鹸だけのこっじゃありません。電気だけの事じゃありません。ね、それをですね非常に始末倹約をする人があってね。そのもったいないからと口では言いながらね、惜しいからそうしておると云う人の、では駄目なんですよ。そりゃ周りから汚なか汚なかと言われても仕方がないです。神様もそう言う風に取られになるかも知れません。ね。けれども、ね、軽う見ないと云う事。そうしなければおられない。いわゆるもったいないのである。
 私、其処迄ですね、言わば、尊いものとして、頂ける様になったら、神様が安心して下さるから、もう心を緩めて限りなしに下さいます。神様が安心なさるからです。おかげでもそうです。ね。この氏子になら、もういくら与えておっても間違わない。また勿論無駄ん使う様な事もしない。ね。ですから神様は安心して下さる事が出来る。今日の私は十里の坂を九里半の登っても安心してはならん、と云う事はですね例えばお金ならお金を、是だけ沢山頂いてからもう、やれやれ安心と云う事じゃない。
 頂いたと云う事は、仰天でしょうけれども、願いが成就したのですから。けれどもその生き方なんです。ね、その頂き方が出来た時に、そので頂き方を神様が認めて下さる、安心して下さる所まで頂いた時に、初めて向こうへ登りきった時だと私は思う。もう有り難い事が分かり、もったいない事が分かったら、お粗末に出来んのですよ。ね。其処でです、それが有り難いもったいないものだと云う事をね、分からして貰い頂かしてもらわなければ出来んのです。
 お互いの信心がです、分かっておる積りであっても、ね、有り難いと云う物でなかったら、または、それにおかげが伴のうていなかったら、それは、積りである。ね、有り難いものに、それをして行く所に、信心の稽古がある訳です。有り難い信心しておる積りとか、有り難い積りて、確かに有り難いと云う事、信心しておる事も事実であり、有り難いと思うておる事も事実である。ね、それは一生懸命今その言うなら、十里の坂を登っておる時であります。安心が行く訳ありません。ね。
 それが何時の場合であっても、ね、何時の場合であっても、有り難いと思えれる、ね、もったいないと思えれると言う所まで、行った時でなからなければ本当なものじゃない。そりゃ涙の流れる有り難いと思う。そりゃ嘘でもないけれどもそれが次の問題に直面した時には、もうその有り難いものは何処へ行っておるやら、神様を恨みはせんでもその神様に対する思いが薄うなっておると云う様なのであってはまだ安心は出来ん。
 結局是を言うならどう云う事かと言うと、やはりおかげの世界から、ね、お徳をお徳の世界に入ったら安心じゃと云う事も、だから言えると思うですね。其処ん所を一つ本気で頂いて行かなきゃいけません。昨日一昨日でしたか、北野の秋山さんがお参りして見えました。この頃朝参りが自動車が出ませんから、今午後から今参って見えますです。それで今化粧品とそれから、あの外交されるまぁついでになんですかね、フランスベットかなんかを、商いしておられます。
 月に十組ずつ作らなきゃまぁ責任額と云うのが有るんだそうです。それで先日はおかげを頂いて十組できておった。所が三十日の二十九日の日に、その一番最後の所が光橋先生の娘が敏江さんちゅうとがおりますが、その敏江さんがその十組の様な物を約束しておったから、ま集金に行かれた。勿論あの親戚ですからま心安うに、おばさん言いよったばってん、もうあらぁやめたっち云うてから言うですもん。うん。
 もうほんなこてもう、ぎりぎりもう、月末になってから、そんならほんなこて早う言やぁもう他ん所に、又お願い行くとにとまぁ言うならば、言うたり思ったりする所である。所がもう本当にあの、何時もにこやかでと云う事が頭にそれこそひらめいた。そんな御、御教えを頂いておった事が。そん時にですね、あんたが都合が悪かならば、良かよと云う事がですもう本当に、にこやかにそれが言えたと云うのである。
 そん時の顔ば写真写真じゃなかばってん、そん鏡でも立てて見たい様な思いであったとこう。あんたばっかりゃじゅうくに本当に、もう言うた時にはすでに自分の心もこもっておる訳です。 もちろん、それが、表情にも何とはなしに出て来るでしょう。不愉快な思い。所がね、その心がにこやかなんです。ですから本当に、その、こう云う時に、こうこうにこやかにして居れれると云う事は、何と有り難い事じゃろうかと云うその有り難い顔を、本当に鏡を立てて見たい様な心がすると、こう。
 おかげ頂いて有りがたいな。本当に日々信心の稽古を本気でしとる者じゃなかな出来る事っじゃないなと云うて、ま昨日はまぁ一昨日ね、そんな話をさしてもらったとこでした。取り組んどくと云う事はそう、有り難い取り組んどかんと迂闊にして、所謂顔色が変わる。にこやかじゃそれを受けられない。後から考えてみてから、まあー周りもご都合じゃったろうと言う風に思うてもです、そん時即ににこやかで受けれれると云う事は、やはり、取り組んどると云うな事でなからにゃ中々出来るこっじゃない。
 所が昨日です昨日、また丁度同じ時間に参って見えてから、先生今日はこげな事がありましたと言うて言われるんですよ。一日にお榊のお供えをさしてもらわなん。自分方と娘ん所で、そうっとの、五、六葉ぐらい買わんならんそうです。何時も持って来る人が、持って来たと云うのである。其処であのうお榊屋さんが持って来たお榊を、まぁ良かつからこうこうやってよりよった、そしたら隣のおばちゃんが出て来てから、もうかずえさん、あんたばっかりは信心しよってから。
 そげんよりたくってからっち言ってから、そんなに言われた。ほんに言われちみりゃそう、まぁよりたくりょうって、そればってんよっちゃならんちゆ、まぁどうぞよってくださいち云う花屋さんも、まぁ言いやしなさらんばってん、何時もんこつじゃから、ね、やっぱりよかつからやって、ね。例え言うならて言うならば、お榊も枝振りの良かとのイキイキと青々としたつを、御神前へお供えをする。例えばどう明かりを赤々とともさして頂くと、何とはなしに拝まして頂くこっちの心もイキイキとして来る。
 姿勢も正さにゃおられんごたる感じがする。お明かりが赤々と燃えとくと、自分の心も明るうなる。人間はそう云ういう感覚を持っておるから、やはりよっちゃ出来んものならばってん、よって良かっじゃから、よって良かじゃんの、とこう云う訳である。あんたばっかりは、信心しよってからそげんよりたくってからち言われ、たった是だけです。先生、それはどっちがほんなこっでしょうか、と言うて、昨日そう言われる訳なんですよ。ね。いわゆる傷つけられたわけです。ムカッとした訳です。
 一昨日の成り行きは、出来じゃった、とこう言うわけです。其処でです思わねばならない事は、ははぁ昨日のは、まぁだほんなもんじゃなかった、と云う事になるんじゃないでしょうかね。成程信心のない人じゃから、今私が説明した様な事を説明してやれば、あぁそげなんもんかな、と隣のおばちゃんも分かるかもしれん。けれどもふんなら、本当に良く良く自分と云う物を、ない、自分の内容と云う物を思うて見るとです。
 例えばよってはいけないものであっても、和恵さんあんたの心の中には、選り散らかす様な心があるかも知れんよ。ね。だからどちらが本当うじゃろうかと云う事、まぁどうともこうとも言えませんけれども、是は自分の心の中にですね、ほんに言われてみりゃね、人ん事なんか考えんで、もう本当に良かつから選り散かす様な本当に心があると選っちゃ出来んもんでも、選ると云う様な心がある所が指摘されたんだと。
 してみると隣のおばちゃんじゃなくて、是は神様だと云う様な事にも頂けるし、かと言うて、また、神様に折角お供えさして貰うのであるから、よってからでも綺麗なのをさして頂こうと云う、まぁどっちがどうとは言えんけれども、そん時に、心の中にちかっとするものを感じたり、ね、もうこの人ばっかりはもう、平気で人の心ば傷付ける様な事を、また、事実そうだそうです。その方は、ぽんぽん言う人らしいんですよ。
 たいがいな者は言いませんよね、どげん言いよったって。心の中じゃ、この人信心しよってと思うたっちゃ言やしませんけれども、あんだけ金光様にばっかり参ってから、そげんよりたくってっちから、まぁ言えれる、言われたと、こう云うのですね。所がさ前の日に、それこそ鏡でも立てて見たい様なにこやかな心は、もう何処へやら、あったと。そして、どれがほんなこっじゃわからん。参って親先生にお伺いして見らなきゃならない程に、まだ決まっていない、定まっていない、と云う事。
 私は今日はね、昨日から本当にこの地味豊かな所ですかね、いわゆるしみじみとと言うか、信心の有り難さを心の中に何時も満喫しておる。有り難いと思うておるね。そう云う信心を続けさせて頂くね。そしてそれでいわゆるしておる積り、そう云うおかげを頂いておる積りであるけれども、時たま、自分の心が傷付けられたりする時にです、是はまだ本当なものじゃない、そこでなら九里半登ると云う、九里半から十里の、登りきると云う事はです、その様に言わば難しい事だと信心を稽古さして頂いておる。
 間違いのない焦点に向かって、一歩一歩進んでいっておると云うたと云う事が言えるのです。それが段々本当なものになって来れば来る程にです、有り難いものは続けて頂く事が出来るのであり、その有り難いものには、おかげが伴うて来る事は間違いないのである。その有り難いが、勿体無いが、ね、お礼参拝をさせて貰わなければおられないと言う所まで、私どもの信心が高度化した時に、初めて、私安心と云う事が言えるのじゃなかろうかと。涼しかばってん、あればお願いせんなんきゃお参りする。
 眠かばってん、此の事ば頂かんならんから、と言う間は、まだ一生懸命、十里の頂点を、なら頂点を目指して、登っておる時であって、ね、まだまだ、これで信心が分かった、信心ができた積りではおってはならない。ね。ただ今申します様に、ね、例えば人を軽う見るとか、見ないと、物を軽う見るとか、見ないと云う事でも、ね、是は私の石けんと電気のことを申しましたが、もうこがしこいらん所は、バチバチ消やしてもらわにゃおられないもの、それけんち言うちから。
 はんてなのをもっとる、それで心を汚しはおらんですよ、分からんですからね。もったいなかじゃんの、こげな事しては、と云う様なものじゃないです。けれども私自身は、そうしなければおられない、ね。石けんでもその様な使い方をしなければおられない、と言うものが出来た時に、初めて私も安心だと云う事であり、神様ももう此の氏子になら、どがしこ石けんを与えたっちゃ無駄遣いどんする事はない、と云う事になって来て、限りなく頂けると云う事になってなるのじゃないでしょうか。
 お互いの例えば今、秋山さんの例をとって申しましたがです、ね、そう頂かなければもったいない。人からどう云うチクっとさせられる様な事を言う、頂いてもです、それを有り難く頂かなければ勿体無い。いや、此の人じゃない。神様と、それを思い切って、有り難く受けなければ勿体無い。そう云う様な物が生まれた時に、私は、安心じゃと云う事が言えるのじゃないかと思うんです。
 そこを、言うなら、もうお互いが、倒れ転びしながら稽古さして頂いて、そこへ焦点を置いておるなら、まず間違いのない焦点へ、向かって進んでおると云う事ですから、その稽古をしとけば何時かは、それが勿体無いと云う事になって来る。ね。ムカッとして受けたんじゃ勿体無い、と言う所になって来る訳なんです。ね。是はもう、石けんを山んごと頂いとるから、もうどう云うお粗末に使うたっちゃ良かと、ね、言う様な物ではなくてです、そりゃ頂いておりますけれども、やはり勿体無い。
 人が使いよる石けんでも、やっぱりこう、粗末な使い方をしておるならば、それは、なら人のもんでもなおしていかなければ、勿体無い。ね。それは自分の物じゃなかから、そう云う自分の身に、損得になる訳でもないけれども、そうしなければ勿体無いと、そうさせて頂けれる様な、私心の状態を、十里を登りきったら有り難い。言わば安心であり、その事が神様にお礼を申さなければおられない、そのお礼の信心がお礼が。
 朝参りでもしなければおられないと言う所迄。お互いの信心が至った時に、初めて向こうへ降りた時だと云う、本日は聞いて頂きました。お互いはまだ限りがありません。もう一日の内にだって、本当にそう頂かなければ勿体無い事が分かっておっても、それば有り難いと受けきらない事が沢山あります。けれども焦点だけはそこに置いて、やはり稽古していかなければいけません。それは本当の所を目指しておる事になりますから、それが一歩ずつでも、そこへ近付いていけれると云う事は、私は信心であると。
 人を軽う見な、軽う見たらおかげはなし、と云う例もとりました。私どもの神意が、みんなが尊い、尊く見えて来る。神の氏子としての取り扱いが出来る様になって来る。ね、そう云う自分が有り難い。ね、それが神様有り難う御座いますと云う、お礼の信心になって来る。そこに私は、神様も安心して下さる。私共も安心じゃと云う事になるのじゃないでしょうかね。
   どうぞ。